13. 危機後の成長
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1. キューブラー・ロスの死の受容過程モデル
ショックに出会った人の在り様に着目した研究というのは、少なくとも第2次世界対戦前までは、皆無といってよかった
病院で死を宣告された患者が、自らの死を受け入れるまでの過程をモデル化
自らの死という思い現実を受け止める必要に迫られた人々に、どのような支援が可能なのかを、精神科医の立場から考察していて、非常に有名
5つの段階に区分
事実を否認するなど、大人げないと思ってしまうが、人は残酷な現実の持つ衝撃に打ちのめされないために、現実を一旦否認するという対処法を取ることがあり、これはむしろ健康的な反応
しかし、いつまでも否認し続けられる訳ではなく、やがては現実に直面しなければならない
「なぜこの私が」といった、現実に理不尽さに対する強い怒りや悲しみなどの情動 「もし命を延ばしてくれるなら、この先の一生は神に捧げます」などといった取引を、神や運命などとの間で行おうとする
自分の死を覚悟するための準備的抑うつの段階
怒り、嘆き、悲しみなどの様々な感情を吐き出し終え、平静を取り戻した時患者は、近づいてきた自分の生涯の終わりを静かに見つめられるようになる
2. 危機理論
この考え方は社会福祉、精神衛生、精神医療、急性期医療、災害医療、ターミナルケアなど、衝撃的悲劇に見舞われた人々を援助することを職業上求められる職場で、活用されるようになっていった
キャプテンらが使っている「危機」という言葉は、失業、離婚、病気、愛する者の死、自然災害、戦争などの予期できない出来事によって、身体的、心理社会的に安定した状態を脅かすものに遭遇することを指している こうした危機に遭遇した時、人は自分が普段持っている問題対処能力ではどうにも対応しきれない状態に陥る
こうした危機的事態に直面すると人はまず、個々の平衡状態が大きく揺さぶられてしまう
人はそうした心の不安定な状態のまま留まってしまうわけではなく、時間はかかるものの、再度心の安定を取り戻し、環境への再適応へと向かっていく
その過程を記述しようとするのが危機理論
危機に直面した人々に対して援助を行おうとする立場の人にとっては、危機遭遇直後から再度の安定に至るまでに非援助者が辿る過程を知ることで、援助者として今、何をすべきかを知ることが重要になる
そこで数多くの危機モデルが提案されている
モデルが数多くある理由の一つは、遭遇した危機の相違、さらにはどのような過程に着目したかという点にある
日本の医療関係者の間では非常に頻繁に引用されている
外傷性脊椎損傷患者を対象に、健康な身体の人物が中途で脊椎損傷という危機に遭遇しながら、新たな事態に適応するまでの過程に4つの段階を区分 第1段階 衝撃の段階(ショック段階)
突然に自分の身体が意のままにならなくなることで、無力感や激しい不安に見舞われ、パニック状態を呈する 第2段階 防御的退行の段階
衝撃から来る混乱に耐え切れずに現実を否定し、願望的思考にふけることで非現実的な幸福感を示す場合さえある
思考が固定してしまい、生活様式や目標などが変化することを拒否する
まだ現実を受け入れることができないので、現実に対処するための提案などは拒否され、このような提案をする援助者をも拒絶してしまうことがある
第3段階 承認の段階
現実に直面する時期
身体的自由を失ってしまった現在の自分に、自己卑下の意識が強く働く
感情的には強い抑うつ状態になり、自殺を企てる場合さえある 第4段階 適応の段階
現実を逃避しているだけでは、何も変わらないことを認識するようになる
自己像を修正し、新たな価値観を築く段階である
自分にまだできることは何かを探り、現実の限界との可能性を模索する中で、新しい満足感の対象を見つけ、不安や抑うつも軽減され、将来への見通しが開けるようになる段階
フィンクはこの4段階が、5つの側面(身体的障害、認知構造、感情体験、現実認知、自己体験)それぞれに現れると考えた
例えば、第1段階であるショックの段階は、身体的障害の状態としては、まだ十分な治療を必要とする急性期の身体的損傷の状態
本人の認知的状態としては、日常的な秩序が完全に崩壊してしまい、思考することができず、状況を理解することさえできないので、今後について計画を立てることなど到底できない状態
本人の感情体験としては、まさにパニックの状態で不安や無力感に圧倒されている
だから現実は圧倒的なものとして自らには認知され(現実認知)、自己体験としては「現存する構造への脅威」と知覚される
フィンクのモデルは、臨床場面では非常にしばしば用いられているが、田中, 2005は「限定された危機モデルを本質以上に拡大活用」し「適用外の実態に既存のモデルをあてはめ、危機状況が理解できたかのような錯覚を持つ」危険性を指摘している アギュレラ(1997)は、段階論というよりは、ストレスフルな事故に遭遇した人がそれを乗り越えるのに必要な要素は何かという視点を重視 このモデルでは、危機をストレスフルな事態に遭遇することで生じた心的不均衡状態が持続してしまうことと定義している
不均衡状態のままに留まってしまうのか、均衡を回復できるのかを決定する要素として、アギュレラは3種のバランス保持要因の重要性を指摘する
適切な社会的支持
本人を取り巻く人的環境としての家族、友人、その他の援助者たちがいるかどうか
こうした社会的サポートが整っていれば人は、孤独を感じることなく、また他者から認められて、心の安定を得て、ストレスフルな事態に前向きに取り組めるだろう
適切な対処機制
困難に出会った時に、それに対処しようとしてどのような行動をとるか
出来事に関する現実的な知覚
2つ目の保持要因とも関連してくれる
自分に降りかかった現実を、どのように近くするかによって、それに対する対処に仕方は大きく違ってくる
3. そうだったかもしれない私
フィンクが対象とした脊髄損傷の患者の場合、自分の身体を自分の意志で自由に動かすことすら敵わない状態で、その後の人生を歩むことになる
しかし、それは自分の人生を、あるいは自分の身体を「あきらめる」ということとは違う
上田, 2002は障害受容について、現実から目を背けずに、自己の障害を、そして障害を持って生きていくという人生を直視できるようになることこそ、障害受容であると述べている しかし、キューブラー・ロスやフィンクの言う、受容、適応の段階とは、具体的にどのような状態にあり、どのように達成されるものだろうか
キングとヒックスは、達成できなかった自己像をpossible selfという概念で検討しようとしている 我々は誰しも、自分の未来について、何らかの将来像を描いている
e.g. 子供時代の「サッカー選手になりたい」, 定年間近の「時間ができたらそば打ちを習おう」
だが、様々な理由でこうした将来像はとうとう実現しないかもしれない
死別や病気などの困難な現実も少なからずある
キングらは、自分の意志と無関係にこうした目標の変更を迫られる機会というのは、実は成人にとっての発達の機会にもなり得るのだと指摘する
だがそもそも、困難を経験した後に成人が獲得できる発達とはどのようなものだと考えればよいか
危機経験によって得られる成人の発達/成熟として2つの要素
彼等の指摘する「幸福」
肯定的感情だけに焦点を当てた、いわゆる快楽的幸福とは少し異なる
自分の人生を肯定的に見ることができ、真の自己と一致した生き方をしていると感じることができる、あるいは、自分が深く大切にしている価値を実現させようとしている時に感じるもの
自分自身及び世界についての見方が、以前に比べて複雑になっているということ
人は未熟な段階にある時には、衝動に支配レ、全か無かといった単純な思考にしか行えない
しかし、発達に伴って、人生の教訓というものは状況依存的であり、人生に対する重大な問いには、たった一つの正解があるわけではなく、妥当な答えがいくつも存在するのだと気づくようになっていく
将来そうなるだろう、そうなりたいと思ってきた自己像が、何らかの困難な体験によって実現不可能になってしまったとき、我々は自己像の変更を迫られる 例えば、困難に遭遇する前には「息子と一緒にアフリカでライオンを見物する自分」という自己像の実現を阻害する要因は何もなく、人はその自己像を夢想することで幸福感を感じることができた
しかし、愛する息子の事故死という現実を突きつけられた時、先の自己像は「そうだったかもしれないが、今では実現不可能な私」になってしまい、別の自己像を見いださなければならなくなる
自己像と
現在の環境が均衡している
矛盾がなく、人の認知(この場合は自己像)は、環境に同化しているという
将来像が、自分の歩むまっすぐな一本道の先にあるものと認識することができる状態であり、幸福感をもたらすだろう
自己像の変更を迫られる場合
認知と環境とが矛盾している状態で、不均衡が生じている状態という
この場合、人は調節という作業を行うことで、認知構造(「そうなるだろう私」像)の変更を行わなければならない ここで、うまく調節を行う上で重要なのは、これまでの認知構造(自己像)を十分吟味すること
失った将来像と同じくらい望ましい新たな将来像を再構築し、再び努力を始める
思い出したくもない以前の「そうだったかもしれない私」について深く考えるなど、心理学的幸福感とは相容れない作業であることは間違いない
キングらの調査
対象: 3群
20年以上の結婚生活後に離婚した女性
同性愛者
2つの質問について記述を求めた
現在の自分にとって最良の「将来像」とは何か
かつて大切にしていて、今では達成することのできない「そうだったかもしれない私」はどんなものだったか
同時に彼等の主観的幸福感、自我の複雑さの度合いを調べる質問紙も実施し、どの程度深く吟味したかという度合いを示す指標として、書かれた記述の中に現れる自己像の詳細さ(記述の鮮明さ、感情的記述の量と内容、細部の記述の程度)を評定 結果
詳細で率直な「そうだったかもしれない私」を記述できた人達は、自我発達の程度が概して高かった
だが、複雑な見方ができるというだけでは、必ずしも成熟とは言えない
実現可能性を失ってしまった「そうだったかもしれない私」に固執し続けているために、記述が詳細であるという人も含まれているかもしれない
さらにキングらは、危機を経験した後に、成熟を果たすことができるためには、「驚き」「謙遜さ」「勇気」という3つの要素が不可欠だと指摘する 人間は当然ながら未来を予測することなどできない
人生には計算違いは確実に起こる
驚く、あるいは人生に驚かされたと認める能力は、成人の発達にとって、本質的に必要な要素 驚くことができるための背景には、謙遜さの感覚が宿っているだろう
謙遜さとは、自分がいかに弱く、いかに小さな存在であるかを認める事ができる能力
しかし、謙遜さと自己卑下とは別物
矮小化してみるのではなく、自分の能力や業績は正当に評価する
受け入れ難い未来を受け入れ、期待を裏切られた後で再び、人生に新たな期待を抱くことは、勇気を要すること
大きな人生の移行後に、幸福感をもつことできるためには、人生に残された可能性を、再び受け入れ期待する勇気が不可欠
これらの3要素を持つ幸福とは、自分の人生についての現実的な知覚を基盤としているので、人生上の困難に直面しても、大きく揺らぐことはない
複眼的な視点で見ると、幸福は多少ほろ苦いものと感じられる
それは、人生には喪失がつきものであると知っていて、人の意志が壊れやすいものだと認識しているから